白石/hitodama128/コースの雑記

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「独り」と向き合うこと (「うちで踊ろう(大晦日)」について)

 


【NHK紅白】星野源『うちで踊ろう(大晦日)』フル・バージョン


「うちで踊ろう(大晦日)」本当にすごい、ひとりでの弾き語りから始まって、誰も聞いたことのない2番は「常に嘲り合うよな 僕ら」という「強いことば」で始まる、作詞をする人は絶対に"強いことば・弱いことば"について考えているはずで、この詩をド頭に持ってくる時点で覚悟が違う、この次の一節「それが人でも うんざりださよなら 変わろう一緒に」は変革の行、速度がすごい。もうこっから全行が鮮やかに移ろう。次行の美しい日常描写では「窓」という言葉の意味が2020年に変わってしまったことをすんなり示唆している。
「瞳閉じよう 耳をふさごう それに飽きたら 君と話そう」
「今何してる? 僕はひとりこの曲を歌っているよ」
一人でも独りでもなく「ひとり」なのだ、ニュートラルに「ひとり」なのだ。だからこそ瞳を閉じて耳をふさぐ時間を「表して」いる。否定も肯定もせず、表している。そしてその態度は

Cメロ、
「愛が足りない こんな馬鹿な世界になっても」
「まだ動く まだ生きている」
という衝撃ある歌詞に続いてラストサビに向かう瞬間に現れる
「あなたの胸のうちで踊ろう ひとり踊ろう」という一節に続く。ここに一番ビビった。
発表された当初から「"家"にも"内"にもめがけた言葉」として機能するように、うちで踊ろうの"うち"がひらがなになっている、という思いが語られていた(英題は「Dancing On The Inside」)が、この思いが回収されているのと同時に「人はひとりである」ということを痛烈に語る詩になっている。
直後に「生きて踊ろう 僕らずっと独りだと 諦め進もう」と唯一「独り」という詩が現れるのもその独立を補強している。
人は独りで生きていて、それでも人と生きている、「生きて抱き合おう いつかそれぞれの愛を 重ねられるように」と結ばれるこの歌がこの年の紅白で歌われたことに恐るべき意味がある。

こんなとんでもない歌が日本中で支持されて、これを抱いて生きている人々がいるならば、それは大いなる救いだな……。と思いました。