白石/hitodama128/コースの雑記

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ありがとう(『風立ちぬ』を見た僕)。

 先日、『風立ちぬ』を見た。深夜、家のテレビをスピーカにつないで、一人で観た。
 ああ! 先月から僕は取り繕った文章を書くつもりで何度も悩んで、しかし今に至るまで書けない。僕はこの映画に対して、まともなジャッジができない。できないよ。ありがとう。お疲れ様でした。宮崎駿に幸あれ!Lihit!と、心と身体からエールを送っている。この感謝は僕がずっと欲しかった感情で、しかし風立ちぬを見る前にはどんなに頑張っても獲得できなかった感謝だ。キーを叩く速度がもどかしいほどに宮崎駿を愛している。誰が、誰がこの映画を撮れると思った?世界に唯一人この映画を撮れる人間がいるんだ、宮崎駿っていうんだけどさ、だけど彼にはもう撮れないよって、全員が、宮崎駿脳内限界女子男子合同愛協会インターネット支部の全員が、2013年、この映画を見るまでそう思っていたと信じているけど(この協会に属する人間をリアルで観測したことは人生で数度しかないですし僕は彼らにこの協会の称号を勝手に押し付けることにした)、やつはやりやがった。あの男は、やりやがったんだ。見遅れてごめんな。協会のみんな!見遅れてごめんな!
 そもそも宮崎駿は、ファンタジー実存主義を両立することに腐心し続けた作家だ。ハードボイルドとコミカルがせめぎ合うTVアニメ『ルパン三世(第1シリーズ)(1971~)』(と、第2シリーズの数話)や、アトラクトに富んだ冒険活劇『未来少年コナン(1978~)』、そして映画監督としてのデビュー作『ルパン三世 カリオストロの城(1979)』……その後犬のキャラクターを使ってイタリアと共同制作した『名探偵ホームズ(1984~)』。スタジオジブリ長編映画以前から宮崎駿のキャリアは膨大で(なんならもっとあるし)、そのいずれにおいても、大きなテーマに向かう少年・青年の清々しい冒険やその心象を瑞々しい世界観に乗せ、リアリズムに根ざした深い洞察力によって描き続けてきた。
ファンタジックな美術、スピーディな展開とそれを補強する疾走感溢れる描写、これらが同居するファンタジーを描くのが宮崎駿だ。宮崎駿の中には、「夢の世界への憧れ」と「現実世界の物理への情念」が同居しているのだ。宮崎駿は、夢の世界における物理のリアリズムを描き続けてきたし、僕はそこに魅了されてきた。
「見たこともない飛行船のプロペラの回る姿」
「名も知らない草花が風に揺れるとき、そこに吹く風の姿」
「瘴気にまみれた世界で風が凪ぐとき、その音が"止む"瞬間」
「かつて人類が作った兵器がしかし人の制御を越えた歴史の中で光る、かつての人々が恐れたビーム」
 すべてが現実の世界に存在しない、にもかかわらず静謐な説得力を持って描かれているのは、彼がそこに実存を信じたからだ。「子供に嘘をついてはいけない」ってそういうことだ。信じた以上、そこにある事実を補強し続ける道を選んだのが、宮崎駿なのだ。そして前述したように彼の洞察眼は、人の営みとその周辺すべてに、揺らぐこと無く注がれている。草や花・川のせせらぎや美しい石畳・人間の営みとしての産業・叡智としての兵器・未知の地平に向かうため、轟音を響かせて空を飛ぶ船…ガンシップ巨神兵……。美しい自然と、それらを焼き尽くす兵器、そしてその2つを結びつける"炎"、宮崎駿の視線はこのすべてに平等に注がれる。彼はこのすべてを、つまりは人の営みとその風景を、愛している。
風の谷のナウシカ(1982~)』においてナウシカは言う。
ガンシップは風を切り裂くけれど、メーヴェは風に乗るのだもの」
 この一言で宮崎駿のすべてがわかる。ガンシップの重厚な飛行は"現実"の揚力に根ざし、メーヴェの飛行は風との共生を持って行われる"思想"の飛行なのだ。そして、ナウシカは"思想の飛行"を愛する女なのだ。現実も虚構も愛し、しかしナウシカを主人公にしたとき、"その飛行は虚構なのではないか?"という問いかけに対しての清々しい反論を描ききることができなかった宮崎駿の苦しみ! 『風の谷のナウシカ』はラスト、大海嘯後の世界で「生きねば……」と結ばれる。思想と現実世界に横たわる諸問題を清濁合わせて見つめた上で、生き続けることに答えを見出して終えたことがどんなに苦しいか!俺にはわかる(気がする!)わかるよ(勝手に!)。
天空の城ラピュタ(1986)』で、亡国の姫君・シータはこう語る。
「『土に根を下ろし 風と共に生きよう 種と共に冬を越え 鳥と共に春を歌おう』
どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ!」
もののけ姫(1997)』のラスト、アシタカはサンに向かってこう語る。
「サンは森で、私はたたら場で暮らそう。ともに生きよう。会いに行くよ、ヤックルに乗って」
 常に宮崎駿は、文明の象徴たる産業・兵器を愛し、しかしそれによって開拓されていく自然に胸を痛め、その共生に答えを出せないまま描き続けてきた。その共生すら、物語の中で描く必然、「虚構」となってしまうことがあまりにも苦しい。しかし宮崎駿はその洞察眼をもって虚構を刹那、真実に変えてしまうので、僕はその力を垣間見るたびに、宮崎駿が美に寄せた思いとその苦しみを思ってしまうのだ。
 たとえばメーヴェが「ふわっ・・・」と浮き上がり、次の瞬間青い光を灯して飛んでいくあの数秒、僕らはメーヴェの実存を信じてしまう。なんと残酷な作家性、三点リーダで伝えられない行間で風に乗るのだ。
 大きい雲の中に雷が鳴るのを見るとき、僕らは「龍の巣だ」と思ってしまう。それは宮崎駿がリアリズムに根ざした視線で描いていたからだ。何をって、ラピュタを。「ラピュタは本当にあったんだ!」って、あの瞬間にあったと思える真実こそが、そこにあった。
 刹那を真実に変える洞察力の真骨頂が『千と千尋の神隠し(2001)』だ。宮崎駿のリファインされた少女像「荻野千尋」はこれまでになくシニカルで、彼女が降り立つ世界には宮崎駿が冴え渡っている。彼女を導く少年ハクは、幼い頃の千尋を助けた川の神様だった、というストーリーラインは「縁」に根ざしており、この構成自体が非常に日本的で、海外からの評価が高かったのも理解できる。どこにもない湯屋の世界に、ジャパニーズ・トラディショナルを見る映画だった(実際のイメージボードのモデルは台湾だったらしいけど)。

 しかし彼は、描くたびに自身の理想と虚構の間に苦しんでいたのだろう、そしてその絶望は重く、『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』が産まれた。僕はこの2つの映画を劇場で見たとき、「宮崎駿は、きっと終わってしまったのだ」と思った。『ハウル』の感想は「CGで動く城とカルシファーが良い」で、『ポニョ』の感想は「絵作りも何もかも変えてきたけど、結局序盤の軽自動車が一台で演るカーチェイスが『カリ城』を思い出す疾走感で格好いい」だ。
 つまり、理解できなかったのだ。あんなに美しい、リアリズムに根ざした描写はどこにも見当たらなかった。その静謐な眼差しはどこに行ってしまったの? 僕らのもとにはもう、帰ってきてはくれないの? 大いに悲しんだ。でも、「宮崎駿はずっとやってきた。『もののけ姫』で引退するって、言ってたじゃない。そんな彼が、『千と千尋の神隠し』を撮ってくれただけで、あまりにも嬉しいよ」って、そう思っていた。だから身の回りの人間にはそういうふうに伝えていたし、その後公開された『風立ちぬ』が怖かったんだ。僕は見ることができなかった。宮崎駿が何を描くのかわからなかったから。

 でも、先日、見た。
 僕としては上記の思いをすべて忘れた頃に、「そろそろ見るか〜! 宮崎駿、どんな感じ〜??」っていうような気持ちで見たかったのだが、そういうわけにもいかなかった(多分そんな日は来ないし……)。
 身の回りにいる、信頼できる数少ないオタクと宮崎駿脳内限界女子男子合同愛協会インターネット支部リアルフェイズの人々が口々に「『風立ちぬ』は…見てほしいですね……でも、Hitodamaさんは、見たうえで"苦手"って言うかもしれません……」と哀愁を漂わせながら語る日が1週間に1度ぐらいのペースで続いたのだ。5年前に撮られた映画についての思いを、別々の場所でそれぞれ聞くことになるなんて、大変珍しいことだし、僕は信頼に(たとえ喚き散らすことになるとしたって)信頼で答えたかったので、DMMレンタルで借りて、見たのだ。

スッ……

 上映数分で、主人公の少年は不思議な形の飛行機に出会う。家の屋根に留まるその飛行機は、動力も、飛ぶ機構もわからない。この飛行機に乗って、主人公は街に繰り出していく。橋の下をくぐったり、急速上昇をしたり、アクロバットな飛行に地上の人々は驚き、窓から顔を出して見守っている。やがて、見知らぬ大きな船が、より上空から現れる。重い雲をまとったこの船がぼとぼとと落とした弾丸に主人公の飛行機は貫かれ、ばらばらになってしまう。
 墜ちていく飛行機、次の瞬間目を覚ます主人公が見るのはボケた蚊帳。頭上にある眼鏡を取り、かけると、カットが主人公の視点に変わる。この視点は眼鏡の光学収差で歪んでおり、眼鏡の外はボケている。窓の外に目をやると、線路の上を汽車が走っていた。
 この数分だけで、僕は参ってしまった。宮崎駿がそこに居た。
 夢の世界に現れた飛行機を見たとき、僕は正直「参った、またこれか」と思った。リアリズムの外に飛ぶ、ベタッとした色の飛行機が、『ハウル』を思い出させた。でも、夢が覚め、主人公がボケた蚊帳を眺め、そして眼鏡をかけたとき、宮崎駿が『ハウル』と『ポニョ』でやろうとしたことが、やっとわかったんだ。
 宮崎駿は『ハウル』や『ポニョ』でリアリズムのレイヤーを越えようとしていたんだ。空想の世界における物理を静謐に描くことでそこに説得力をもたせていた作家が、その物理から疑ったときに、『ハウル』のような色が、そしてポニョという生き物が産まれたのだ。自身の中に根ざした愛も、仕組みも、すべてまっさらに、紙の上に初めて線を引くように定義していった世界が『ハウル』であり『ポニョ』だったのだと、やっとわかった。
風立ちぬ』の作品演出は最後まで一貫しており、夢の世界はリアリズムを排して描かれ続けると同時に、現実世界には残酷に静謐な視線が注がれている。開始5分で出てきたシーンの圧倒的な情報量に打ちのめされてしまう。幾度も明示される夢の世界の不可能性が、ナウシカぶりの「思想の飛行」を可能にして、それを開始5分で果たしたことが、見えましたか? そして現の世界に現れる病的な光学収差、機関車の美しい軌道……見えますか?
 『風立ちぬ』は時代に翻弄された飛行機設計技師である主人公・二郎の人生に寄り添って進んでいく。二郎が少年期に読んだ雑誌には、イタリアの飛行機設計技師、カプローニ博士の姿がある。自身の大先輩であるカプローニ博士に思いを馳せた二郎は、夢の中で彼に出会う。博士は戦争の終わった世界で巨大な旅客機を飛ばすことを夢見て、二郎に自身の設計した飛行機を披露する。
「僕は近眼なので、飛行機の操縦士にはなれないんです」と二郎が言う。
「私も飛行機の操縦は出来ない。作る人間だ。設計家だ。飛行機は戦争の兵器でも商売の道具でもない。夢を形に出来るものだ。さらば少年!」
カプローニ博士は答える。
 その後も数度二郎は夢の世界へいざなわれ、カプローニ博士に出会うことになる。そしてそれだけで、時は過ぎてしまう。「人間の創造的時間は10年だ!」と言うカプローニの激励を受け、二郎は夢と現を往来し、そのたびに宮崎駿の視線が見えるような説得力が僕らを揺さぶり、そして次の瞬間に物語の時間はどんどんと過ぎていく。
二郎は大学生になり、東京へと向かう汽車に乗っている。ここで二郎の声が

庵野秀明に変わるのだ!! 最高の芝居だ、胸が震えた……!
「風が立つ、まだ生きようと試みなければならない」とつぶやく二郎、あまりに静謐な汽車のシリンダー、あまりに静謐な汽車のシリンダー! 汽車から見える風景や、汽車の中で出会った美しい令嬢……それらをすべて止めてしまう関東大震災の恐ろしい音。家々が揺れ、簡単に崩れてしまうことの、根源的な恐ろしさ。
 カプローニに向かってとひとりごちる二郎の姿。
「日本の少年よ、まだ風は吹いているか?」
「吹いています。恐ろしい風が……」
 食堂で見る、さばの骨のアールの美しさが飛行機の翼に活かせないかと考える二郎……ああああ! 伝わってるか? みんなついてきてるか? 現実世界と人間の産業は常に地続きでそれらをいずれも愛している宮崎駿が、そしてその苦しみの中でやっと出した一つの答えそのものがこの物語だった、ということがわかってもらえるだろうか? 何度も苦しみ、物語の中で思想の代弁者を探してしまった宮崎駿が、そこから解き放たれる物語を描けた、そしてその舞台が90年前の日本であることの美しさ、「生きねば。」と書いた意味……! 伝われ! 伝わる!

 ……もう、「あらすじを書いて定期的に爆発する」という文体、これを書いている僕がその怪異に参ってしまうので、思うところを点々と書いていきますね……。

計算尺
 関東大震災で菜穂子さんの付き人が足を痛め、接ぎ木に計算尺を使うシーンでは、計算尺は裏返っている。でも、二郎が就職して、はじめての仕事でカバンから出す計算尺は、表になってほんの数秒画面に映る、この計算尺があまりにも美しい……! 等間隔に刻まれたメモリがつるりと滑り、二郎はその数字をすべて理解して仕事を始めて、そう、最初のシーンで裏返していたことも、仕事を始めたシーンで初めて計算尺を映したことも、道具に対しての尊敬があるから、すべて必要なんだ。

・金属
 日本人が、紙と木でできたフスマみたいな飛行機を飛ばしていたとき、ドイツでは金属の飛行機が空を飛んでいた。それを目の当たりにした二郎の衝撃が、ジュラルミンの飛行機にそのまま描かれている衝撃が伝わる? 紙と樹木でできた飛行機がジュラルミンを纏うとき、静謐な金属への静謐なまなざしを描きとる静謐なまなざしは、宮崎駿、あなただけのものだよ! 美しすぎるドイツの飛行機や石畳が胸を震わせる。

・1度目の試作機
 二郎が就職して作った、初めての試作機(七試艦上戦闘機)が墜落してしまう、この数分間が恐ろしい。晴れていた空は気づけば曇り、雨の中で墜落した飛行機を前に呆然とする二郎……。この空に『となりのトトロ』の皐月が走るシーンを思い出してしまう。刻一刻と日が沈むあのシーン、覚えていますか? 宮崎駿は、時間すら描いてしまう……。

・シベリヤ
 シベリヤを与えようとして、子供たちは唾を飲みながらも、それを受け取らない気高さを持ち駆けて行く。そしてそれを「それは君のエゴだよ」と一蹴される二郎。
 このシーンは、この映画が「飛行機の話」だと思っている人にとっては、全く必要ないだろう。でも、宮崎駿という人間が『風立ちぬ』という映画を撮るときには絶対に必要だったシーンで、彼が何に苦しんで、しかし何に誇りを見たのか、つまりその洞察眼の根ざす先に常に居た「子供」の尊厳を描ききっている。

・菜穂子さん
 菜穂子さんはこの映画のミューズだ。二郎は最序盤に偶然出会った彼女と再回帰運命(『運命的再会』の因果律が逆のやつを今作った)を果たし、交際が始まる。しかし当時の死の病・結核にかかった菜穂子は、療養のために高山病院へ。仕事を始めた二郎は遠くの菜穂子を思うが、菜穂子はとうとう病院を抜け出して、二郎に会いに来てしまう。結婚を交わした二人が、僅かな時間をともに過ごすそのシーンで、二郎の妹・加代は二郎に詰め寄る。菜穂子が二郎に顔色をさとられぬよう、頬に紅を差してまで寄り添う姿に耐えられなくなった加代と、それに向けた二郎の言葉があまりにも重い。
「加代、僕たちは今一日一日をとても大切に生きているんだ」
 現実の世界と夢の世界を行き来するこの物語で、そのたびに二郎は歳を取り、しかし、現世にはあまりにも「夢」があり、「夢」という言葉の2つの意味をどちらも支持しながら「僕たちは今一日一日をとても大切に生きているんだ」って言える人生がどこかにあって、そこで風が吹いていたんだと思うと、二郎と菜穂子の人生のその瞬間を寿がずにはいられない。このシーンから先、涙が勝手に流れ続けてしまい、僕は一人「風が……」とつぶやく存在になった。

・2度目の試作機
 二郎が飛ばした二度目の試作機は空高く舞い上がり、とんでもない飛行速度を叩き出す。逆ガル翼の美しい飛行機は、一瞬空想の中の飛行機と見紛うが、九試単座戦闘機の試作一号機は実際にこの姿だったらしい。飛行が成功して歓声に沸く中、しかし二郎は菜穂子に思いを馳せる。菜穂子は置き手紙に思いをしたため、誰にも知らせずに高山病院へと戻っている。「美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね」という言葉が去っていく彼女を物語り、そして菜穂子を思う二郎の横顔には、風が吹いているのだ。この瞬間、物語が終わることに泣いてしまう。語るべきことが語られ、夢と現の2重螺旋は見事に結ばれ、そして物語が飛行に回帰したこの瞬間に。

・夢を越えて
 最後、夢の世界でカプローニ博士と出会った二郎。上空には灰色の空に向かうゼロ戦の姿が見える。ゼロ戦は飛び、しかし炎をまとい、煙が昇るのと逆さまに墜ちていく。
 カプローニ博士は二郎に問う。
「君の10年はどうだったかね?力を尽くしたかね?」
「はい。終わりはずたずたでしたが」
「あれだね、君のゼロは」
 二郎は答える。
「はい。でも、一機も戻ってきませんでした」
 すべてが、燃えてしまう。夢に、現に、激動の時代に、争いと炎に揉まれながら、しかし一瞬一瞬を必死に、大切に生きて、それはあまりにも苛烈で、そして最後には、菜穂子は去り、美しい飛行機は爆弾をたくさん積んで、積載量はデザインを殺し、そしてそのゼロですら、燃えてしまう……。二郎の10年はずたずたに、終わるのだ。それでも、それでも「風が立った、まだ生きようと試みなければならない」のだ。
 カプローニ博士と初めて会った草原で、ずたずたに終わった10年に思いを馳せる二郎は、ここで菜穂子と最後の邂逅を果たす。菜穂子が夢の世界で再び二郎の前に現れる刹那、あまりに短く、目まぐるしく、何を得たのかともわからないままに、とめてしまいたくなるような人生そのものを前に、しかし菜穂子は、
「あなた。生きて……生きて……」
 と言う。夢の世界から生へと託されるバトンを、二郎は
「ありがとう……ありがとう……」
 と受け取るのだ、今を生きる庵野秀明の声で……!その瞬間、二郎の髪は風に揺れている……。
 宮崎駿は自身の創造的時間を超えて、ずたずたになり、しかし人生の中で、何度も風が立ったのだ。そんな風の物語を描くとき、主人公の声を庵野秀明に託した理由が、その答えが、わかってしまう気がするんだ。涙が止まらない。

ーーー
 空への飛行は、かつて人類が夢見て、そして達成した大いなる出来事だ。飛行に必要だったのは、風だ。宮崎駿は、幾度も風と飛行を描いた。同時に、現実に横たわる問題と戦うとき、空想・思想が敗北する瞬間に苦しみ続けてきた。
このいずれもを内包し、回帰し、そして自身の人生に物語を編むような奇跡を持ってこの物語を締めくくってしまった。そしてその舞台が、現実世界としての90年前の日本だったことが美しすぎる。


・最後に
 あなたが最後にその眼差しで見つめたものが、現実であったことにただただ感謝しています。物理法則や機械や人間に対して、残酷に誠実な眼で向き合ってくれたから、本当に嬉しくて悲しい。寿ぎ(呪言)の映画でした。七番目の橋が落ちるときに汽車が走り、ドーバー海峡の大空中戦でハドソン夫人が走らせた車輪……郵便局員が飛んだ、キキがデッキブラシで駆けた、ナウシカが風に乗った、あの空へと思いを馳せて、しかし苛烈に生きた人々の最後に、すべてが燃えてしまうということへの悲しさも胸に……。


・余談
『風立ちぬ』の公式WEBサイトに、映画の企画書が掲載されている。一つ引用したい。

ーー航空技術のうんちくを描きたくはないが、やむを得ない時はおもいっきり漫画にする。この種の映画に会議のシーンが多いのは日本映画の宿痾である。個人の運命が会議によって決められるのだ。この作品に会議のシーンはない。やむを得ない時はおもいきってマンガにして、セリフなども省略する。描かねばならないのは個人である。ーー

「この手の映画に会議のシーンが多いのは日本映画の宿痾である」と語ることにも納得できるし、その結果として産まれた『風立ちぬ』は素晴らしい省略により鮮やかな場面転換を果たしているとも思う。前述したが、この映画を撮る際に主人公を庵野秀明が演ったことは必然だったと言える。そして、この映画の公開後、庵野秀明が何を撮ったか覚えていますか?……シン・ゴジラだよ!日本映画の会議シーンを継承した大傑作。シン・ゴジラは、庵野秀明からの宮崎駿に対する意趣返しとしてすら機能しているの、恐ろしい……。
 シン・ゴジラも大傑作なので、庵野秀明という男の歴史に根ざした人生の映画なので、また書くかもしれません……。

 

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 ジブリは見放題とかにないので、買って……見て!!!!

 
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 僕は『風立ちぬ』を見たあとしばらく、上に書いたやつを感激とともに15分ぐらいかけて他人にべらべらと話してしまうという症状を持っていたので、数少ない友達に、上記の思いを伝える機会が何度かあったのだが、マジで友達が少ないので、開催された会のうち3回にハマ・オカモト氏が同席しており、つまりハマ君は僕の早口オタクを3回、しかも同じ話を延々聞かされる羽目になった。そんなハマ君が、「そういうの、書き残しておいたほうが良いよ」と言ってくれたので、頑張って書いたよ。書いてから思ったけど、書いてよかったと思う。ありがとう。

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 ありがとう。