差別のループ

最近は読書お休み。

 

インターネットを見ていると、

聞くのも嫌になるような差別的な侮蔑を簡単に見つけることができる。
例えば「中国人・韓国人がどうのこうの」とか
「右/左がどうのこうの」とか。
あるいは「黒人・黄色人種のカラーがどうのこうの」とか。
精神障害者アスペルガー、ガイジ、ガイシャ」とか。
それらの差別的な言葉は嫌いだし、自分で使いたいとは思わない。
慎重に使うべきだとも思う。

そして、このような差別的な言葉を使う人のことも嫌いだ。
意識的に使っているならそれは悪意だと思うし、
無意識に使っているならそれは無知の悪だとも思う。
ただ、こういう言葉を使う人も同じ社会で生きている以上、
これらの人々が嫌いだ、と大きな声で言うこともまた「差別」になるわけで、
結局差別というのは、その時々の社会(とそこにおける正義)の形で変わっていくのだ、と言うところに悩んでいる。

例えば、差別の難しさを端的に表すジョークとして
「俺は差別と黒人が大嫌いなんだ!」なんて言葉があるけれど、
単純に
「俺は差別主義者が大嫌いだ!」と言う言葉だけでもジョークになってしまう。
このジョークを笑えるかどうかはその社会の正義の形で変わってしまうので、
僕は差別主義者が大嫌いであると同時にその大嫌いな人々とどうやって共存していけばいいのかがわからなくてマジで困っている。
事実、ヘイトスピーチを肯定する人々はヘイトスピーチを排斥する人々に対して
表現の自由」を盾に差別を唄って反論するわけだけれど、そんな反則まがいのバカの堂々巡りは、めちゃくちゃすぎて反論のしようがない。

精神障害者が嫌いだ」と歌う精神障害者もいる。
精神障害なんだから私はもっと社会から『優しく』されるべきだ」と勘違いしている精神障害者もいる。

僕はヘイトスピーチも障害者差別も嫌いですが、
ヘイトスピーチをしている人間は死んだほうがいいとか、そういうことは思ってない。
どこまでが弱者の剣で、どこまでが屁理屈で、どこまでがユーモアなのかは人と社会の形によってその時々で違うので、慎重に生きていきましょう、と言うほかないのだけれど。